(2018)

3月16日    
4月 1日    
   
     
3月16日(日) トリオ・ロス・パンチョス Next

 今は昔の30代半ばだった頃のこと。
横浜駅西口地下街に、足元にはサラサラと小川の流れる様な洒落た雰囲気の喫茶店があった。
たまには、打合せ等で利用する機会もあったが、そこでは、週に一度くらいだったろうか、トリオ・ロス・チカノスというトリオ・ロス・パンチョスの和製コピー・トリオが来て、パンチョスの名曲の数々を流していて、ぞっこん、聞き惚れていたことがあった。

 最近でのふとした機会には、それらの曲を懐かしい気がして思い出していた機会があり、2、3日の前には、それらの歌詞を調べようとして検索していたのだが、何という偶然なことだろう、すぐ近くの厚木市文化会館での、かのトリオ・ロス・パンチョスのコンサートの日程と云うのが見つかってしまったのだった。

何という偶然。

彼らが大ブレークした時代というのは、1960年前後辺りだったのではなかったか…。

それが…。まさか、本家本物のパンチョスさんが、未だに現役で生きて活躍しておられるなどとは、一瞬の不思議で不可解な疑問と驚きが過ったものだった。

 よくよく調べてみると、やはり、それなりにメンバーの入れ替え交代の変遷歴史があり、バトンタッチされながら今日に至っているとの由。なるほど、と納得。

 ともあれ、本家本元を世代交代しながらも引き継いできているのだから、現代のロス・パンチョスとしての本物には違いない。曲は昔に横浜西口地下街の店で時々に聴いていた名曲がずらりなので懐かしい気がした。

 この年になってくると、昔の元気が良かったころの思い出と云うものが懐かしくもなってくるものなのだろうか・・・。

最近では、このトリオ・ロス・パンチョスの曲を自宅でも、しばしば聴いていることがあり、また、ピアノでの練習曲としても取組み始めたりしていたものだった。

車の中での走行中には、いつも、それらの曲をCDから流していたので、助手席でうんざりする程に聞かされていた娘からは、「お父さん! ベサメムーチョの旋律が頭の中で、ずっとグルグルしてるよ!」と言われてしまったことがあった。
「いや、今は何とか、歌詞を覚えようとはしてるんだけど、やっぱり、難しいね。習ったこともないスペイン語だしね」との車中でのやりとり。

その、まさかの本家本元の公演というのが、たまたま、すぐ近くの厚木市内であるというのを知ったのが、偶然にも公演直前の2、3日前という、何という奇遇!

傍らに居た娘からは、「お父さん、それはやっぱり、行った方がいいよ! 私も行きたい!」と。急遽の思い立ちで検索してみると、ネット上ではチケットの購入が既に終了。

ローソンに足を運んではみたものの、既に扱い終了。当地の会館に足を運んではみたものの、やはり、既に終了。

かくなる上はと、当の会場となる厚木市文化会館の窓口に迄、公演前日に足を運んだのだったが、「前売り券は既に主催者側に返納したので、あとは当日券になります」との、つれない応答だった。

かくして、当日券をあてにして、娘と一緒に窓口に駆け付けたのだったものだった。

「よろしかったら、丁度のタイミングで、前列席でのキャンセルがありましたヨ!」との由。

最前列ブロック3列目の中央席で、言わば最上級のS席が均一料金で買えたのは、普段からクジ運の悪い小生にとっては、何というラッキーなことだろうかと、またもやの驚きであり、二人で喜んだものだった。

「周りは皆、昔し若かったオジさん、オバさん達ばっかだね? 高校生は見当たらないよね?」

「あったり前じゃん! 高校生なんて・・・。私だけ…だね(笑)」

演奏が始まると、何となく、カラダの内側からの反応を感じる様な心地良さで素晴らしかった。さすが、本家本元、と。

「お父さんのレパートリーがまた増えるかもネ!?

「そうだね。 今まで、1、2曲だったのが、何曲か追加できそうかな(笑)」

4月 1日(日) 世界が読み違えた中国の膨張と野心「中華の夢」。


 今は昔のこと。確か、
1996年の夏頃か、あるいは秋にかけての頃だったろうか・・・。
 当時では、国内PC事業での最大手だったN社本社のロビーで、先方の事業部長さんだったか、ちょっとした、何かの打合せの機会に、その場でのふとした思い付きからの相談を、話のついでに持ち掛けたことがあった。
それ程に親交があった訳でもないので、今ではお名前も既に記憶に残らないのだが、つまりは、PCの話題の中での話。
 その頃には、時折、上海市への所用での機会があり、前年の秋に初めて訪れて宿泊した人民パーク前のホテルでは、伝票印刷時にカウンター越しに見かけたプリンターと云うのが、なんと、小生が数年前に所有していたことのあった8ビットマシンのプリンターと外観がほぼ同一の製品だったのに驚いたものだった。
 当時の日本では、N社のPC9821シリーズと云うのが全盛期であり、国内シェアの半数以上を占めていた時代のことである。
(これだったら、32ビットマシンの日本のPC98シリーズの機種を中国で売れば、面白いように売れるのではないだろうか・・・)との、素人感覚でのふとした思い付きではあった。
上海市内を流れる黄浦江の対岸にはN社のロゴマークが屋上に目立つビルがあるが、市中のウインドウに日本製のパソコンなどは皆無で見当たらない。
(最近は、ちょぼちょぼとの新たな人脈というのが出来てきつつあるので、それらを生かせたら面白いのではないだろうか)との素人ながらの思いつきから、それを先の
部長との話の中での余禄として持ち掛けてみたものだった。
 「う〜ん。少し、検討してみたいのでお時間をください」というのがその場での回答ではあった。
それから半月ばかりは経った頃の次回に会った機会には、「やはり、ココムの問題があるから難しいですね」と云うのが後日での再回答であった。

 ココム・・・。つまりは、「対共産圏輸出規制」と云う当時の西側国際間での言わば掟とでもいうべく輸出制限の対象品目であった訳である。
何しろ、パソコンの輸出をすれば、それでミサイルだって造れるようになりますからね…とか。そんな話は何処かでも聞いた様な気はしたものだった。

 1970年代半ば辺りから、世界の国々がどんどん、台湾との交流を廃しては、中国を認知するような流れとなり、ケ小平が改革開放路線を宣言してから以降では、それ迄は近くて遠かった中国の存在が日を追って身近になって来てる様な時代の潮流があった。
 もはや、そんなココムなんて必要性がないのではないのかな。。。
アメリカが他の西側諸国を取り仕切っている現実があり、自分たちが対中国での輸出に向けた段取りがスタンバイになった時点での解放となり、凡ては、アメリカ都合による処であり、アメリカの一存でそれが解放になった時には日本や他国はその後塵を被りながら追うことになるのだろうか、と
の疑念がもやもやと心に残っていたものだった。
後年に至っては、まさに、案の定と云った様な思いがあった。
 改革開放とやらの波に乗せられて、怒涛の様な勢いでの工場の対中移転進出があり、想像を遥かに超えたスピードでの展開と流れであったとも思う。
瞬く間に、中国は世界の工場となり、日米欧等からの先端技術の移転吸収で急激な大発展を遂げて来たのがこの20数年来の流れであった。
 かつては、世界第2位のGDPであった日本も数年前には、あっという間に中国に追い抜かされてしまい、その後も、30年来の失われた日本を尻目に、その差が大きく広がる一方での経過となった。

 国交回復後の当時の日本側の考え方としては、”お隣さんが発展していくのは良いことだ ”との思いは会った様であり、主導的な米国の考え方の基本としても ”中国からの留学生の受け入れとかもどんどん受け入れて、共に発展して行けば、中国人も自由主義社会の方がより良い選択肢として気付き、体制も変わってくることだろう ”との期待と予想はしていたものだろう。
只、今や、それが全くの裏目に出てしまった結果と言わざるを得ない現実がある。
 膨張し続ける「中華の夢」。一帯一路。
経済力と軍事力を急速に発展させて、着々と力を着けて来た中国共産党一党独裁体制の中国には、逆に、大きな脅威を抱かざるを得なくなってきた世界や周辺国それぞれでの事情がある。
数年前に誕生した習近平政権以来での積極的な対外拡張政策、海洋進出は、それ等に、さらに拍車をかけている現実がある。東シナ海、南シナ海域での領海問題やインド、ネパール方面での国境問題等々も然り。
 特に、日本にとっての一番身近な問題では東シナ海、尖閣諸島周辺海域での問題は深刻な状況にある。
いつ突発的な衝突や事件に発展しかねない危険な状態の日々が続いている。
一体、あのココムとやらは何だったのか、何処へ消え失せてしまったものか。。。
世界の終わりの始まりの前哨戦の幻を見ているのだろうか。。。